如何に或るか

新幹線とは何かと聞かれた時に速いとか綺麗とか答えるのではなく、そのものずばり、新幹線とは何かと問うているのだから、何たるかを答えればよいのである。
同じことを、学問の世界でも同じようにすればよいのに、ああでもないこうでもないと寄り道をし、わかったふりをして似て非なる答を出すことのなんと多いことか。
何事もシンプルである。
本質が何かを見極め、欲しい答を得るためにどうすればよいか考え、行動をとるだけである。
 

本質の欲求

 

〜自由と欲求との狭間で〜

 

何を描こうと考えるのではない。筆をキャンバスの上で遊ばせ、勝手に走らせるのだ。偶然の色の混ざり具合、筆跡。人間の意図を超えた自然の悪戯。意志を持たない筆が思う存分遊んだ後、偶然の軌跡に私がようやく筆を加える。つまり、いつも何が出来上がるかは私にもわからないのである。ただ無心になって描き続け、ふと絵を見たとき初めて、ああ、こんなものが出来上がっていたのだな、と気づく。

絵の勉強をしたことがないので、尚更自由であるという点で私は幸運かも知れない。子供の頃に絵を描いている自分と本質的に何も異ならない。

表現することの自由を覚えた子供達は、無限に筆を走らせる。常識に縛られない世界は大人をハッとさせる。

 

 

 

何事においても歳を重ねる毎に知識が増え、それに縛られる確率が高くなりがちである。

法律、ガイドラインといったものから、日常生活における、普通はこうするものだ、といったものまで、常識と名付けられたものはごまんとあるが、これらはトータルでみて10中9回上手くいくための先人の知恵の結集である。勿論、これらの知の結集をタダで使わせていただけるのだから、その知識は十分に取り入れて使わせていただこう。ただ、当てはまらない1割に、使ってみようとして違うと思えば、それは参照した知識が異なるか、使い方が異なるか、はたまた新しいことの発見かもしれない。進歩の歴史がここにある、というとまた語弊があるが、兎角、何故か上手くいかない、は原因を突き詰めると面白い。

 

 

 

勿論、知識を手に入れれば入れる程、より高次元の世界を扱うことが出来、その知識を縦横無尽に組み合わせることで新しい発見をする瞬間が度々ある。所謂、頭の中で繋がった!という奴である。知識は利用するものである。逆に知識に縛られて、こうでなければならない、と制限された時、それはもはや知識の奴隷である。人間は元来慣れ親しんだものに愛着を感じやすい。得た知識、まだ得ていない知識、まだこの世界にない概念、これらのうち、既に得た知識の中で処理したいという欲求は、安堵感や愛着といった根源的なレベルに存在すると仮定すれば、場合によっては知識によって思考力、発想力あるいはあらゆる能力が制限されるケースがあることも想像に難くない。

 

 

 

〜本質はいつもそこに〜

生きることはとても面白い。何を見て、聞いて、感じて、何を生み出すか。それはその人次第である。関数f(x)を与えられた赤ん坊は、今後いかなるxに出会い、いかなるy=f(x)を生み出すのか。それは生きている限り永続的に続くものであり、xはいかなるものであってもよい。実にこの瞬間もxに出会い続けている。

1分後何に出会い、何の選択肢を選び、その先に何を考えどう行動するか。何を選ぶのも私達の自由であり、今までに下した無数の決断が、今の私達を形作る。

f(x)というブラックボックスは、何を答yとして出すかわからない。予測可能範囲内でいつも答を出してくる人もいれば、奇想天外なブラックボックスを持った人もいる。

水の入ったコップに、墨汁を一滴たらしてみよう。墨汁は重力に従ってゆっくりと降下し、2又あるいは3又に分かれ、その先にまた分岐を作り、あたかも相似形のような、しかしまた厳密にはアシンメトリーな形を作る。そのままじっと見ていることにしよう。分岐はさらに細部まで及び、あたかも樹木のようである。

あるいは血管のようと表現されるかも知れない。兎にも角にも見覚えのある形であることは間違いない。魅力的な形であるとともに、不思議と心が落ち着く美しさである。小さい頃に読んだ理科実験の本に書いてあったと思うのだが、これは水のフラクタル現象という。フラクタルとは、どの部分をとってみても自己に相似な部分から成り立っているような形状を指す。そして驚くべきことに、この墨汁の動きの場合、フィボナッチ数列に従うという。私は毛利衛さんの宇宙の本が好きで、小さい頃よく眺めていたものだが、この墨汁の樹木は、宇宙から見た地球に恐ろしい程似ている。海岸線の複雑な模様、大自然の景色は同じ法則に従っているのだと直感する形。なぜ大自然を目の前にして美しいと感じるか。それは確実に、色彩やスケールを超えたレベルで美しいと感じている。それは私達の体を含め、全てのものを創造する関数f(x)そのものに最も近い表象yを目の当たりにすることになるからなのではないかと私は思う。墨汁一滴というxと、美しい墨汁の樹木y。あたかも法則はもともと存在し、運命は何を選ぼうともとより決定しているのではないかと思わせるコップの中の世界。

ビッグバンから現在に至るまで、同じ法則に則って全てのものは動いてきたのではないかと直感する何か、関数f(x)。私は勝手にこれを、本質と呼んでいる。

フラクタルが気になり、Wikipediaを調べてみると、このようなものが見つかった。「血管の分岐構造や腸の内壁などはフラクタル構造であるが、それにはいくつかの理由があると考えられているそうだ。例えば血管の配置を考えたとき、生物において体積は有限であり貴重なリソースであると言えるので、血管が占有する体積は可能な限り小さいことが望ましい。一方、ガス交換等に使える血管表面積は可能な限り大きく取れる方が良い。この場合、有限の体積の中に無限の表面積を包含できるフラクタル構造は非常に合理的かつ効率的である。さらに、このような構造を生成するために必要な設計情報も、比較的単純な手続きの再帰的な適用で済まされるので、遺伝情報に占める割合もごく少量で済むものと考えられる。」(出典:Wikipediaより)

私達が数学を美しいと思い、筆舌しがたい快感を感じるのは、きっとこれらがとても本質に近いからである。医学の世界もまたとても奥深く、特に生命の仕組み、詰まるところのf(x)に遭遇した際には、強烈なドーパミンシャワーが脳を喜ばせる。学問もスポーツも結局は、本質を求め、より高次元の段階に到達する快感とともに歩んできたのであろう。

きっと生きているうちには到底f(x)自体を解明することは不可能なのかも知れないが、最もsimpleにこれを表現している結果だと思われるyに時々遭遇し、あたかもf(x)に触れたかのような素晴らしい体験をすることがある。

見ようとしなければ見えない。いつもそこに本質はある。